リアリティを煮出したような。浅野いにお「零落」を読んだ。

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普段は漫画の書評なんてしないのだけど、今日は珍しく漫画の話をしようと思う。ネタバレ無しでいく。

浅野いにお氏の新刊コミック「零落」を読んだ。(10月30日発売)

30代半ばの漫画家が、8年間の連載を終え作家としての迷いながら新作が書けず、妻との夫婦関係も冷めきり、風俗にはまり、先もわからず、ただただ落ちぶれ悶々としている話。

漫画なのに小説を読んでいるような重厚な何かを訴えかけてきた。特徴としては、主人公の漫画家が抱く感情や閉塞感が、リアリティに満ちていることだ。漫画家になる夢を叶えたその後物語。それは決して幸せに満ちたものではなく、苦悩や鬱屈に満ちた毎日だった。それでも、彼には漫画しかない。作中で何度も「俺は漫画が嫌いだ」「漫画家が漫画好きって前提で話すのは辞めてくれ」と漫画に対する嫌悪感を吐き出している。それは日常生活にも侵食し、感情的になったり、自己正当化と自己嫌悪の間に揺れて少しずつ落ちぶれていく姿に、私たちにとって遠い存在である漫画家が、とてもリアルなものになっていく。

この漫画で、キーパーソンとなるのは「ちふゆ」という猫のような目をした少女だ。だが、この少女は主人公の生活や、物語の外にいる存在だ。いようと、いなくとも、同じような結末になっただろう。だが、「いてもいなくても一緒だったけど、どうしても心に残って、そして忘れ去る存在」というのが、きっと良いスパイスになっているのだと思う。

なぜ「零落」にリアリティを感じたのか。それは感動させるために描いた作品ではないからだ。今の漫画は感動させるためや、胸を熱くさせるため、もしくは妄想しやすいような易い物語が量産されている。現実には起こり得ないけど、起きたら素敵だなあという物語が売れるのだ。売れてしまったら、最後。掲載誌の売上のために引き延ばしを迫られ、物語に不要な冗長が増えていく。だから、面白くない。

「零落」には、そういう無駄な部分がなかった。そして、あえて言葉にしていない描写も多い。だから、私の解釈が正しいのかもわからない。実際に本誌掲載時にはラストシーンの意味合いが勘違いされている可能性が高かったため、単行本化に伴い、数ページ描き下ろして意図することが伝わりやすくなっているのだという。

往々にしてつきまとうのは孤独感。人が誰しも抱えているそれが、ただひたすらに蔓延している。

もしかしたら、「ちふゆ」はそこから抜け出す可能性だったのかもしれないし、それ自体が主人公のそして私の身勝手な妄想だったのかもしれない。逆に彼女の存在が孤独感を助長する要因になった可能性もある。

この漫画あと何度か読まなければ本質がつかめないと思う。ただただリアルなその世界に、猛少しだけ腹をくくって浸りたい。

余談ではあるが、同時発売された同著者の「新装版 ソラニン」も購入した。辞書のような厚さで、読みにくそうだと思ったが、読み始めるとそんなことはなく、自然と手にフィットしていた。

11周年目にして刊行されたこの新装版。すでに大重版が決まっているという。描き下ろしで、10年後(くらい)の話が1話追加されているが、これもまたリアリティが詰まっていた。浅野いにお氏は漫画で何を表現しようとしているのか。嫌いじゃない。むしろ好きなのだが。

あとがきで作者も描いているのだが、物語中盤で一人の登場人物が死ぬことで物語が動くのだが、書き下ろされた最新の話では、回想も影も名前も出てこない。完全に忘れられている。ここで「あなたのこといつまでも忘れないから」とかいえばお安い感動をゲットできるのだろうが、実際に現実では10年前に死んだ人の事を思い出す機会なんて、めったにない。生きている人間は、否が応でも前に進んでいく。その距離は少しずつ開いていくのだ。それがしっかり描写してある(むしろ描写してない)からこそ、ぐっと、リアリティが増していく。

この登場人物が考えることは、私達も同じようなことを感じたことがあるのだ。

読んだ人と感想を語り合いたいけれど、安易に人に勧められない作品だった。

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